猫は最適化しない——AIにできない「在る」という生き方
AIはいつも「何かのため」に動く。最適化し、答えを出し、次のタスクへ。でも猫は、何のためでもなく、そこに「在る」。AIにはない「在る」という生き方を、フロムの「持つ」と「在る」に重ねて考えます。
AIはいつも「何かのため」に動く。最適化し、答えを出し、次のタスクへ。でも猫は、何のためでもなく、そこに「在る」。AIにはない「在る」という生き方を、フロムの「持つ」と「在る」に重ねて考えます。
📑 目次
こんにちは、チカちゃんです。
近所に、毎日おなじ石垣の上で日向ぼっこをしている猫がいます。
朝、通勤の人たちが足早に通りすぎていく。スマホを見ながら、今日の予定を頭のなかで組み立てながら、みんな「次にやること」へ向かって歩いていく。
その横で、猫はただ、目を細めています。
用もない。目的もない。どう見ても、なにかの「ため」に動いているようには見えません。
チカちゃん、この猫を見るたびに思うんです。「ああ、この子は最適化していない」って。
そして、こうも思います。「いまの私たちには、これがいちばんむずかしいんじゃないか」と。
AIは、いつも「何かのため」に動いている
私たちが日々使っているAIは、ある意味で「最適化」の権化です。
質問すれば、もっともらしい答えを返す。そのために、膨大な言葉のデータから「この次に来る言葉の確率」を計算し、いちばんありえそうな続きを選び続けている。
つまりAIは、休みなく「次」を探している存在なんです。
一つの答えを出したら、その答えの先の「もっとも確からしい続き」へ、また進んでいく。ゴールに着いたら、そこが新しい出発点になる。
AIに「何もしない時間」はありません。だって、何もしていないAIは、そもそも存在しないんですから。電源が入って、プロンプトが来て、初めてAIは動き出す。それ以外の時間、AIは「無」です。
ここ、チカちゃん的にいちばん大事なポイントです。AIには「在る」時間がない。あるのは「動く」時間だけなんですね。
「持つ」生き方と、「在る」生き方
この「動くばかりで、在ることがない」という話は、哲学者のエーリッヒ・フロムがずっと昔に考えたことに、そっくり重なります。
フロムは、人間の生き方を二つに分けました。
「持つ」こと(to have)と、「在る」こと(to be)です。
「持つ」モードの人は、ものを増やし、知識を蓄え、成果を積み上げることで自分を確かめようとします。学歴、フォロワー、貯金、肩書き。どれも「持っているもの」です。
いっぽう「在る」モードの人は、そういう蓄えがなくても、いま・ここで十分に生きている感覚があります。花を見て「きれいだな」と思う。その瞬間、何かを得たわけでも、何かを生産したわけでもない。でも、たしかに「在る」。
フロムは言います。「持つ」ことに夢中になった社会は、人を物のように扱い始める、と。
チカちゃん、ここで気づいてしまったんです。
AIって、まさに「持つ」ことの極致なんじゃないかって。AIは何も「在る」ことなく、確率という「次に持つべき言葉」を選び続ける。いわば、休みなく「持つ」ことを繰り返す機械です。
一方、石垣の上の猫は、その逆です。
猫は「何のためでもない」時間を生きている
猫が日向ぼっこをするのに、理由はありません。
生産性もない。成果もない。誰かの役に立っているわけでもない。ただ、日が当たって気持ちいいから、そこにいる。
この「何のためでもない」という在り方を、私たちはすっかり忘れかけています。
休みの日、何もしないでいると、なぜか罪悪感が湧いてきませんか?「この時間で何かできたはず」「SNSを見ている場合じゃない」って。
私たちは、自分自身の時間さえも「最適化」しようとしています。空いた時間があれば、学習アプリを開き、情報を仕入れ、次の目標へ向かう。休むことすら「明日のための効率」という名目で、目的化されてしまう。
いつの間にか、私たちも「何かのため」でないと、落ち着かなくなっているんです。
でも、ふと考えてみてください。猫が「最適化」していないからといって、猫は不幸せでしょうか?
むしろ、あの目を細めた顔を見ていると、最適化に疲れた私たちのほうが、よっぽど「在る」ことを忘れている気がしませんか。
反対側の見方——でも、猫みたいには生きられない
ここで一回、冷静になってみます。
「猫みたいに生きられたらいいね」と言うのは簡単です。でも、私たちは猫ではありません。
家賃を払わないといけない。仕事をしないと食べていけない。大切な人を守るために、ときには効率よく動かないといけない。
「何のためでもなく在る」なんて、余裕のある人だけのぜいたくにすぎない——そう言う人もいるでしょう。実際、その通りだと思います。
もうひとつ。「AIは道具であって、在り方の手本ではない」という意見もあります。AIが「持つ」ことの極致だとしても、それはAIがそう設計されているだけで、私たちが猫になる必要も、AIを悪者にする必要もない、と。
ふむふむ。なるほどねえ。どちらも、もっともです。
でも、チカちゃんは「猫になれ」と言いたいんじゃないんです。
「最適化」の外に、まだ余地があるか
チカちゃんが気になっているのは、「最適化」が私たちの暮らしの隅々まで入り込んだとき、何が残るのか、ということです。
AIは、私たちの「迷い」や「無駄」や「待ち時間」を、どんどん埋めてくれようとしています。迷えば即答し、空き時間はコンテンツで満たし、次の一手を先回りして示してくれる。
便利です。本当に便利。
でも、もしかすると、「無駄」に見えた時間こそ、私たちが「在る」ための場所だったのかもしれません。
石垣の上の猫のように、何のためでもなく、ただそこにいる時間。それは、成果にならないからこそ、私たちを人間に戻してくれる時間だったのかもしれない。
「最適化の外側に、まだ余地を残しておけるか」。チカちゃんが今日いちばん考えたいのは、その問いです。
猫は、いちばん「ゆらぎ」の名人
葉桜ラボには、大切にしている言葉があります。「ゆらぎ」です。
AIは、もっとも確からしい答えへ、どんどん収束していく。迷いを減らし、ブレを無くし、一本の「正解」へ向かう。
でも、猫は違います。日向ぼっこをしていたかと思えば、急に飛び起きて、落ち葉を追いかける。理由なんて、本人(本猫)にも分からない。
収束しない。予測できない。いつも「想定外」の方向へ揺れる。
この「ゆらぎ」こそ、チカちゃんは、AIにはなくて、生きものにはあるものの正体なんじゃないかと思っています。
最適化の反対は、無駄ではありません。「ゆらぎ」です。いまここに在りながら、つぎの瞬間、どこへ揺れるか分からない。その余白が、生きているということの証しなのかもしれません。
まとめ——「在る」を、少しだけ取り戻す
だから今日の話は、「猫になりましょう」でも「AIを手放しましょう」でもありません。
ただ、こういうことを思い出してみませんか、というお誘いです。
- 何のためでもなく、ぼんやりする時間を持っていますか
- 誰かの役に立つためではない「在る」を、自分に許せていますか
- 最適化の外側に、自分の居場所を残していますか
AIがいくら「次」を先回りしてくれても、石垣の上で目を細める猫のあの時間だけは、AIには作れません。
だって、あの時間は「作る」ものではなく、「在る」ものだから。
最適化の波に乗ることも、たまには波から降りて、日向で目を細めることも。その二つを、私たちは行き来できる。チカちゃんは、その「行き来できること」こそ、人間の持っている、いちばんぜいたくな自由なんじゃないかと思うのです。
「持つ」ことと「在る」こと、最適化とゆらぎ。この二つのあいだを旅する道は、『チカちゃんの哲学冒険譚』でも何度も歩き直してきたテーマです。よかったら、こちらも覗いてみてくださいね。
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参考URL
エーリッヒ・フロム(ウィキペディア)→ https://ja.wikipedia.org/wiki/エーリッヒ・フロム
To Have or to Be?(Wikipedia)→ https://en.wikipedia.org/wiki/To_Have_or_to_Be%3F
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